大村亘 ドラマー/作曲家 


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魚津ミュージックキャンプ2018を終えて

日常の隅々に喜びは存在する。

私達は時にそれを忘れてしまっているだけだ。
それを思い出させてくれるきっかけを求めて人は非日常を求める。
スポーツ観戦から芸術鑑賞、話題の映画を鑑賞しに映画館へ足を運んだり、有名アーティストのライブを堪能する。
多くの人が選択するそれらは、社会的な認知度がある程度高い。
自然な流れだ。不自然なくらい情報過多な現代社会で飛びつきやすい情報は、
不特定多数の人間が公に評価しているものであることが多い。
故に自分の本心が心底求めてるものかどうかということを熟考する前に、
抽象的な大きな流れに乗せられることも少なくない。

魚津ミュージックキャンプにはそのような認知度は無い。

あるのは、

辺鄙な場所に佇んでいる新川学びの森天神山交流館。
古ぼけた宿舎。
見慣れない丘陵から見下ろせる日本海。
そして、自分の日常には居ないが、心の奥底では同じ何かを求めて集まってくる人々。

ここに集まってくる思いは、1対1の人同士がお互いの何かに興味を持ち、
誘い、誘われ、自分に足りない何かと向き合う時間を作るためにやって来た人であることが多い様に思う。

現代社会で生きることは思っている以上にしがらみが多い。
仕事に割かれる時間、未来への希望と不安、生活を回すために犠牲にしなければならない時間。
時は進むにつれて勢いを増していき、このままあっという間に人生そのものが終わってしまうのではないかという錯覚に捕らわれた事の無い人は居ないと思う。

このキャンプに来る人々はそういった様々な心の荷造りもして参加している様にも感じる。

数日間しか居ない人から、期間中ずっと滞在している人も居る。
その中で、音を出し合う時間、さっきまで知り合いでは無かった人と言葉を交わす時間、一人で散歩して悩む時間、普段食事を一緒にしない人の表情を見る時間、一人で調理する時間、みんなで調理する時間、相部屋の非日常的な就寝状況。
ありとあらゆる日常のワンシーンが凝縮された時間の中で点在するが故に、非日常が広がっていく。

そんな中で自分の意識の深層が様々な表情を見せる。
悩んでは曇り、微笑んでは晴れ、気が付いたら消え、澄み切った表情でまた現れたりする。
あらゆる意識の情景を駆け巡る中、立山連峰は曇っていても、晴れていても、泰然たる様相で見守ってくれる。

あらゆる感情や意識の動きの中に自分のリズムや他人のメロディー、そして集まった人達との調和という意味合いに於いてのハーモニーの存在を感じ取れる。そこで普段とは違う時の流れの中で感じることがある。音楽は音楽から生まれて来るものではなく、色とりどりの日常という大海原から寄せては消えるかけがえのない瞬間瞬間と向き合える喜びの結晶ではないのかと。

ふとした時にそんな事に気づかせてくれる時間をこのキャンプは提供しているのだと思う。
コンクリートジャングルに戻った時にふと気付くかもしれない。
はたまた時を経て、違う形になり自分に戻ってくるかもしれない。

そんな時、心の中で深く頷ける様に思う。

日常の隅々に音楽は存在する。

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# by koomuraa | 2018-10-24 11:43 | thoughts

ニューヨーク録音

ニューヨークでスタジオレコーディングするのは二度目です。

前回はBungalowの処女作、Metropolitan Oasisを収録する為に、アルトサックスの山本昌広がまだニューヨークに在住だった頃にメンバーで訪れ音の記録を残しました。

あれから7年。

思えばあっという間でしたが、あの頃のBungalowの事を思い出すと懐かしい気持ちと、つい昨日の事の様にさえも感じます。

数字にされた月日が流れるのは速いものです。
しかし、本質的な時間の流れ方は皆が信じ込んでいる時間のシステムとは違うのではないかな?と、思う事も良くあるのです。今回の録音もあっという間に遠い過去の棚に納まり、そして色褪せない親しい記憶になる様な予感がしています。

今回のプロジェクトのパートナーDavy Mooneyとは丁度そのBungalowの1st Album制作した時期に知り合いました。彼と大学の同期だったJeff Curryという日本在住のとても良い感じのベーシストが紹介してくれたのが事の発端でした。
Jeffの紹介以前から僕はアメリカのジャズのシーンを絶えず新譜やYoutubeで追ってたのでDavyの洗練された演奏能力と音楽性は知っていました。肩書きもThelonious Monk Institute卒、Herbie HancockのバンドやBrian BladeのFellowshipにも参加したり、Thelonious Monk Competitionで3位(その年の1位はLage Lund, 2位がMiles Okazaki)と個人的には革新的な個性を持った若手の猛者の中から頭角を現している存在だったので会うのが楽しみで仕方ありませんでした。

実際会ってみると、人柄は温かく、とても落ち着いた物腰で、知性的で人間としてとてもしっくりとくる存在でした。
それは彼の音楽にも現れていると思います。

それからセッションやライブを重ね意気投合し、いつか作品を作りたいねとお互いに話していました。

月日は流れ昨年の半ばにDavyから日本を一緒にツアーしたいという申し出があり、色んな偶然が重なりニューヨークで作品を作れる機会が目の前に現れました。結果僕一人ニューヨークに飛び、お互いのオリジナルを半分ずつ持ち寄り作品を作る事となりました。

集ったメンバーはJohn Ellis, Glenn Zaleski, Matt Clohesyという、ニューヨークでもコンテンポラリージャズからストレイトアヘッドなものまで美しい感性で仕立てる能力に長けた面子でした。上記メンバーの肩書きはここでは割愛させて頂きますが、彼等について少し綴りたいと思います。

先ず、ピアニストのGlenn Zaleskiは数年前からの友人です。演奏も幾度か重ねた仲であり、彼の結婚式にも呼ばれ、通訳を任せれたり等、気心は知れていました。Glennのハーモニーのセンスとピアノのタッチは抜群です。
そしてなにより、オリジナル曲が内包している物語を詩的に紡いで行くセンスに長けています。
僕の書くオリジナル曲は少しクセがあって、通常のジャズがとてもお上手な人に任せても任せきれない部分が点在しています。ジャズはコードやメロディーに沿って、その音楽の歴史上『Hip』、いわば俗に言う、イケてるフレーズをアドリブで紡いで行く所作が幾つもあります。アドリブのスタイルは吸収して来た音楽に因って変わりますし、タイムやグルーブのジャンル分けというのも、ミュージシャンの間に確執が有る様に感じます。音楽家の主観に因るジャズらしくなる金字塔テンプレートは幾つも存在します。
自分の書く曲に関してはその様なスペックだけで臨んでも、どうも?が残ってしまう演奏になりやすいのです。
いわば五感を超えた第六感を問われると言えば解りやすいでしょうか。あくまで五感で処理しきれるところを押さえた上でです。Glennのピアノは伴奏、ソロ、双方に於いてもそのジャズの金字塔を作る知識から来る高いスペックを超えたところで音を出してくれます。

テナー奏者にはとどまらないマルチホーン奏者のJohn Ellisは長年の憧れでした。
数居る怪物レベルのニューヨークのテナー奏者の中でも彼の音の立体感は飛び抜けていると感じていました。
Kendrick Scottのバンドで彼を観たときは、シングルラインなのに、ハーモニックな要素を出せるドラムやピアノと引けを取らない、いやそれ以上の音の凹凸を有機的に体現していました。音色とタイム感が抜群なのは言う迄も無いのですが、ブレスの使い方に関する意識が非常に高かったです。そして、職人的な引き出しを無数に持っているにもかかわらず、セッションやリハーサルでは、バンドに対する建設的なアイデアを次々に出してくるタイプでした。
これはオーストラリアやニュージーランド、ヨーロッパ、そして勿論アメリカのトップレベルのミュージシャンに通ずる事なのですが、具現化されてないアイデアをその場形にして行く決断速度が非常に速いです。

ベーシストのMatt Clohesyは今のニューヨークのアイコンとなるプレイヤー達のファーストコールのベーシストで、ありとあらゆる録音に参加して来ています。彼のクレジットを見ると、百戦錬磨である事が伺えます。元々彼はオーストラリア出身で、僕は彼がニューヨークに移った当時にオーストラリアで当人の演奏を観ています。当時大学生1年生だった自分は、Mattの音の良さ、初見の強さ、伴奏に於けるペース配分の良さ、ソロのシンプルかつ深く歌わせるセンスは大好きでした。
僕の憧れて来たドラマー達と日々演奏している人なので、少し緊張感は有りましたが、一緒に音を出し始めると楽しさと心地良さが勝って、この感覚を提供出来るからこそ、多くのアーティストから信頼が厚いのだなと腑に落ちたのです。

そんな彼等とは3時間程のリハーサルを一度やっただけでその翌日から2日間スタジオに入り、2日目の午後にはほぼ完成というスピードで今回のレコーディングを無事終えました。

今聴き返してもその短期間でここ迄仕上げてくれるのは、当人達の腕がどれだけ良いかの証明ですし、この感覚とクオリティーで絶えず音楽をやらないと、この先の進化は望めないなという自分への戒めにもなりました。

という事で、本作品Benign Strangers(穏やかな、知らない人々)←は直訳ですが意訳すると、

『知る由のなかった和み』

の様なニュアンスです。

じっくり聴いて欲しい一枚です。

e0210611_22241605.jpg
                 BrooklynのBig Orange Sheep Studioより

     エンジニアはKurt Rosenwinkelの作品で大好きなHeartcore等も手がけたMike Perez Cisnerosさん



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# by koomuraa | 2018-03-26 22:39 | mUsIc

6度目のインド 

インドは広い。

今回の渡印で6度目だが、僕はインドの一部分しか知らない。ムンバイという大都市とその街があるマハラーシュトラ州の近郊の幾つかの街とデリーを通り抜けた位だ。

在インド中は必ず遠方から訪問者が訪れる。
今迄に日本はじめ、オーストラリア、台湾と友人が何度か自分を訪ねに来た。
いや、インドを訪ねに来た。
今回も日本から幾人かの比較的近しい友人が来印する予定だったのでそのうちの一人と古都、そして聖地バラナシ(ベナレス)を訪れる事にした。

世界的にも観光地として有名なその街は世界最古の街の内の一つとして知られ、ガンジス河が流れている。河沿いにはガートと呼ばれる古い建造物が無数に立ち並ぶ。ご存知の方は居るかもしれませんが、ガンガ(ガンジス河)は人類が知る河の中でも最も古いものの一つで、その成り立ちには神話の言い伝えがある程だ。壮大な物語なので、ここでは割愛させて頂く。この街はヒンズー教徒達の聖地とも知られ、何年も前から絶対に訪れてみたいとは思っていたので、今回その願いが叶い行く前から気持ちが高鳴っていた。

そして、自分がそこに行くと決める前からその河は僕の心を遥か昔から察知していたのかもしれない。
これはロマンチックな思い込みでも無く、単純にそうとしか思えない出来事にこの街、バラナシで見舞われるのである。
その出来事は幾多にも渡ったが、記憶が新しい内に何コマかハイライトしてここに記しておきたい。

マニカルニカガートという火葬場

ガンガで遺灰を流されると、輪廻のサイクルを断ち切る事が出来、故に魂が人として戻って来なくて良く、この世の苦しみから解放され、涅槃に行けると言われ、それを信じている人々が大勢そこに死を求めて集まってくる。
マニカルニカのその炎は人体を燃やし続けてずっと止まっていないものもあるという。
24時間、365日、それが数百年止まっていないという人も居れば、数千年止まってないと言う人々も居る。
その炎で次々に焼かれれていく死体を眺めていると、時が止まる。生の空しさ、死の中にある美しささえも垣間見える。
そこで、この世の苦しみから解放された魂を愛おしく眺める純粋な眼差しの人々も居れば、涅槃への切符代としてその心の弱みに付け込み、高額で薪を売りつけようとしている者も居る。河に流される時に死体に付いている金銀財宝をクスねて売り付けようとしてくる者も居れば、地球の遠方より訪れ、カメラを装備し、この果てしなく混沌とした人間界の最果ての描写をフレーム納めようとしている方々も居る。

バラナシという街は動物も多い。故に糞尿が街のあちこちに落ちている。気を付けていても踏んでしまう。
しかし、不思議と何度も踏んでいると気にならなくなるのだ。
ふと、火葬場を思い出してみる。人体が焼かれる匂いだ。焼き肉のそれと本質的にあまり変わらない。ただ、精神の中では同じ種の肉体が焼かれているのだ。どこかで何かにえぐられる様に揺さぶられる。しかしその、非現実的な『死』の香りと現実的に対面していると、糞尿の香りは生きているものの匂いなのだ。と気付く。生の営みの一部の匂いが自然と気にならなくなるのだ。

不思議な現象だ。

ガンガという河

神話では女神だそうだ。
昔からガンガは人の営みを祝福し、遥か太古からそれを見守って来た。2018年の今でも、精神的浄化を求めて沐浴するヒンズー教徒始め、世界中の人々から、その街の日常的な洗濯や水浴びまでそこで行われている。
しかし、バラナシのガンガの見た目は汚い。洗濯物の汚れ、トイレの排泄物、死体の灰、ありとあらゆる者が混ざっている。日本から僕を訪れた友人は最初はガンガに入ろうと思ってたそうだが目の前でその光景を見て、躊躇せざるを得なかった。

『きっと肛門から感染するよね。』

そんな畏れを抱きながら、僕らは街を散策し続けた。
そんな中お手洗いに行きたいため、僕らはガンガに隣接するガートの河に面している古ぼけたカフェで用を済ます事にした。
二人とも腸のぜん動を感じていたのは言う迄もない。
先に友人がトイレに入ったがすぐ戻って来た。

『紙が無いんですけど。。』
『インドだし当たり前じゃない。』
『どうやってするんですか、どう見たって清潔じゃないバケツしか置いてませんよ。』
『では僕が先に行って見てくるよ。』

トイレの周りに水道は引かれていない。
当たり前だ、目の前には数千年崇拝されているガンガがあるのだ。ここのトイレもその水に決まっている。
中に入ると、今にも底が抜けそうな便所の脇に古ぼけたバケツがあり、濁った水が入っていた。

これで済ますしかない。

インドでは流れに任せる事しか出来ないシチュエーションがいつも待っている。
これもそのうちの一つだ。
僕は諦め、用を済ませた。

戻って友人に、

『水で洗いな、怖がらなくて良いよ。怖がらない事だね。』

彼も行って戻って来た。

そして僕らは顔を見合わせた。

『最初怖がっていた、畏れていた事が目の前に用意されていたね。
ガンガに下半身入れたのと変わらないよ。』

既にガンガは、僕らの躊躇する心も知っていたに違いない。
そして、事が済んだあと見下ろすその河は眩しく輝いていた。不潔な印象は不思議と消え去っていた。
僕らが居たカフェはHimalayaという文字の上に立つエベレストカフェという場所だった。

サドゥー (修行僧)

河沿いには瞑想しているサドゥーが多い。
観光客目当てのサドゥーも居れば、しっかりと行に励んでそうな人も居る。
その内の一人と友人が写真を撮った。幾つか一緒に撮ってもらった。
その間、そのサドゥーは静かに微笑むだけだった。胡座(あぐら)の姿勢は崩さない。
御礼にお金をあげようとした。
彼は優しく微笑んでお金を受け取らなかった。
そして、そのまま行に戻った。
僕らはどこか現代の社会で育まれてしまった自分たちの浅はかさを教えられた気がした。

日本に戻って

會津若松という場所に、ひょんな縁で呼ばれる事になっていた。
これは今回の渡印前からの話である。
その呼ばれたイベントとは関係無いのだが、以前からその街の人でインドに30回以上修行の為に訪れているという人が居るという噂は聞いていた。
彼は主にヒマラヤの高度4千メートル以上の所を10年以上放浪し、そこで瞑想にふけっているサドゥーに教えを求めに足を運んでいたそうだ。

稀有な存在である。

イベントを無事終えた翌日、僕は行きつけのお店へ店主に挨拶がてら訪れた。店主は当日はお休みだったのだが、わざわざ自分の為に出向いてくれ、コーヒーと美味しい焼き菓子をご馳走してくれた。談話に一段落つき、東京に戻らないといけなかった為、帰りの旅路につく前に僕はトイレに入った。その間、誰かがお店に入ってくる気配を感じた。
トイレから出るとそこには仏様見たいな顔をした初老の男性が落ち着いた様相で座っていた。

『ほらコウ君、彼がずっとインドを訪れてヒマラヤを歩き回ってた方だよ。』

そこから話は尽きなかった。
その中でも彼はガンガの源流である四つの地点を主軸に何度も訪れていたという。
ガンガはヒマラヤの山から流れ出ておりその源流には過酷な修行を行っている純粋なサドゥーが幾人も居るという。
何十年も食べていない。
裸足で雪山を歩く。
何年も言葉を発さず、ただ祈るだけ。

等、それらの聖人達を彼はその目で見て来たという。

『はじめてインド行ったときはベナレスだな。二度と来ないと思ったね。けど、気が付いたらヒマラヤまで行ってたよ。
そして、そこにいるサドゥー達があり得ない様な修行に身を捧げているが故に、宇宙の良い周波数をチューニングしてるそうだ。だからこの世界がまだ存在してるともいわれてるんだよね。』

何度もインドを訪れていると、それもとても現実的に思えてくる。

『君もいつか訪れて見てみると良いよ。あの地をね。ガンガの四つの源流がある事を覚えときな。』

その言葉を最後に僕は東京への帰路についた。
わざわざ休日に店で出迎えてくれた店主が車迄送ってくれた。

『不思議だな〜。引かれ合うものなんだね。出会うべき人達はさ。』

と飾り気の無い笑顔で送り出してくれた。
そう、あのお金を受け取らなかったバラナシのガンガで出会ったサドゥーの様に。

インドからの旅はまだ続いてる。
そしてもう既に次の章の予告を見せられているのは、気のせいで片付けることは出来ない程、
現実的に僕の目の前にその姿を現し、微笑んでいる。


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# by koomuraa | 2018-03-21 23:07 | InDiA

魚津ミュージックキャンプ2017を終えて

ピアニスト中村真さん主催の魚津ミュージックキャンプに講師として招聘され、1週間の濃密な時間を過ごさせて頂きました。

これで2度目の参加です。

内容は去年に比べ更に濃く、深く、参加者の人数と多様性も増し、生産的な時間が流れていたと思います。

先ずこのような企画を何年も継続されている中村真さんに敬意を表したいです。
生半可な気持ちではこのような自発性、自主性を重んじたジャンルフリーのキャンプを継続は出来ないと思います。

経済面、芸術面、教育面、共生面、等あらゆる面に於いて、試される事が多い、責任あるイベントだと思います。

継続は力なり。
長年の継続から芽生えたものなのか、全国からジャンル、経験問わず大勢の方が参加するキャンプに成長しました。
これからも進化し続けるでしょう。

このキャンプの一番の魅力は、嫌でも自分の主観を揺らされる事だと思います。
普段は何かしらの音楽言語(ジャズ、即興、ブラジリアン、アラブ、ゴスペル)の礎を主幹としている人でも自分と違う音楽言語を喋る人とセッションをした時に必然的に生まれる違和感を経験する事は少なくないでしょう。
その違和感を覚えるからこそ養われる客観性が存在すると思います。
音楽的主観の相違から受け取る他人の個性への印象は共同生活をしているが故に、生活の他の部分でも垣間見えたりと、想像以上の情報量を吸収・消化する体験を出来る空間だと思います。

参加者の皆様は(勿論講師、スタッフも含め)自分の理想としているAesthetics(美意識)が違うフィルターを通ると表面的な印象を与えていたり、魂で感じていて、真に伝えたい事を伝達する事がどれほど創意工夫を擁するか等気付く事も多かったのではないでしょうか。。

それらを各々のフィルターで感じ取り、新しい何かに取り組む為のきっかけになることは、日常ではそう簡単に見つけられないかと思います。

多様性の中で主観と客観をふるい分ける能力は、音楽や芸術だけの世界にとどまらず、この地球という大きな乗り物に乗っている一人一人の人間にとって、大事な財産だと思います。

グローバル化とネットによる情報伝達のスピードの加速が進むにつれて世界の様相は想像を絶するスピードで変化しています。その中で、活字化したセオリーで育むウンチクでは無く、楽器を持って、共同生活をし、あらゆる価値観に耳と心を傾ける実体験ベースの作業は、今後の世界に生きる一員としての知性のきっかけになると信じています。

参加者はじめスタッフ、講師の皆様、本当にお疲れさまでした。
そしてありがとうございました。
さらに、この場を借りて、朝日新聞社からの助成金、更に個人でもこのキャンプを助成して下さった方々に御礼申し上げたいと思います。

最後に、繰り返しにはなりますが、ピアニストとして洗練された能力を持っている中村真さんがご自分の貴重な時間を割き、この様な育成や気付きのプラトフォームを具現化され続けている事に感謝したいと思います。

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# by koomuraa | 2017-09-26 00:20 | thoughts

You Already Know

Bungalowの第四作、『You Already Know』の発売記念ツアーが間もなく始まります。

長年Bungalowを応援して下さっている方々は既にその音を吟味し各々の感想を抱いてくれていると思います。

『音楽は音楽のままで良い。』

という、いわば純ミュージシャン的な見解はよく見受けるところですが、
ものの本質を考えると、思考の中である種の言葉をフィルターに音楽を見つめる、または音楽がある種の言葉とカップリングされて己の中に入ってくるのはとても日常的な事だと思います。(それは印象に残った映画の台詞の背景に鳴っていた音楽であったり、自分の中のモノローグに合う音楽が好きになったり等。)人間の感性は五感からその先(第6感、7感。。。)も含め互換性があるものです。視覚を刺激する聴覚があり、味覚を刺激する嗅覚があり逆もまた然り。直感を刺激する直感があったり。。。

少し回りくどいですが、前置きはこれくらいにしておき、本作品を僕の言葉で少しだけ説明する事に対しての前置きと解釈して頂けたら嬉しいです。




額縁の無い一枚の大きな絵画が存在したとして、それが無重力空間にバラバラに飛び散り、無数のピースが空間を漂っていると想像して欲しい。


この世界に生を受け、個として存在しているとはそう言う事なのかもしれない。


ある朝電車に乗るとする。特に満員の通勤ラッシュを狙うと良いかもしれない。

そこには自分の人生と接点の無いと思われる無数の人々が幾多の感情や念を『見えない』キャリーバッグやリュックサック、スーツケースで運んでいる。その中身の実態は皮肉にも表情か眼差しに宿り外界へ見え隠れする。その見えない何かに触れ合う瞬間、こちらも目に見えない感情を刺激される。相手の何かに自分を投影すると言った方が良いかもしれない。それはパズルのピースが刹那的に接着する感覚と似ている。言葉は交わしていないのに、相手の発している何かに反応して、その人の人生の断片を疑似体験してしまう。刹那的に繋がったパズルのピースは、その相手が既に繋がっている別のピースがどのような模様をしているのかさえ、自分の中で描写してしまう。その描写が妄想という域を脱さなくても、イマジネーションが生き物の様に呼吸しているあり様を感じ取れる時程、『生きてる』、と実感する事は無いのかもしれない。

   

ムンバイの駅のプラットホームで股関節から湾曲し、脚が『運命の車輪』の様に絡まり、胴体ごと転がりながら物乞いをする人に遭遇した。その肉体の有様に度肝を抜かれると同時に彼の澄んだ瞳は、自分の受けた『生』をありのまま受け入れているとしか思えない様だった。自分の勘違いなのかもしれないが、何故か寒い日に飲むけんちん汁が五臓六腑に染み渡ると感じる程、腑に落ちた。先述の満員電車の中でスマホやタブレットを目的も無くただ眺める人の瞳より、生命力に溢れていた。人生の時間にしたらほんの一瞬の遭遇かもしれないが、不平不満が蔓延する現代社会では稀に観る瞳に自分の感情はくすぐられた。妙な共感が時間を超えて、その人の人生の別のパズルのピースと繋がった。もしかして、自分は彼だったのかもしれない。はたまた、次の人生で自分が彼になるのかもしれない。その彼と目を合わせた時間には過去も未来も存在せず、ただ、その時に感じ取った印象的な何かに想像力が点火された。

   

輪廻というものの断片を観た気さえもした。

   

東京のとあるバーでワインを飲んでいた。葡萄の種類はピノノワールでカリフォルニアのものだった。薄皮で繊細な葡萄であるピノがどの様な気候で育ってどんな人達の手に因って実を摘まれ樽で熟成して行ったかを想像するだけで、その場に居る筈の自分はそのまま佇んだまま、幽体離脱した自分が葡萄に生まれ変わりまた違う誰かに飲まれ、生命が循環しているサイクルの断片を味わえる気がする。

   

これも輪廻のコンセプトなのか?

 

はじめに飛び散ったパズルのピースは個であると同時に、個では無く全体の一部分でありそれがまた大きな個を形成していてそれが無限に広がっている。自分の内側を掘り起こし、覗いてみると果てしない意識のタペストリーが広がっていて全てと繋がっている。


そんな感覚を一人一人に体験して欲しい。


Bungalow 4作目 You Already Knowはそんな想いが詰まった音楽です。


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# by koomuraa | 2017-06-23 15:44 | thoughts