大村亘 ドラマー/作曲家 


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You Already Know

Bungalowの第四作、『You Already Know』の発売記念ツアーが間もなく始まります。

長年Bungalowを応援して下さっている方々は既にその音を吟味し各々の感想を抱いてくれていると思います。

『音楽は音楽のままで良い。』

という、いわば純ミュージシャン的な見解はよく見受けるところですが、
ものの本質を考えると、思考の中である種の言葉をフィルターに音楽を見つめる、または音楽がある種の言葉とカップリングされて己の中に入ってくるのはとても日常的な事だと思います。(それは印象に残った映画の台詞の背景に鳴っていた音楽であったり、自分の中のモノローグに合う音楽が好きになったり等。)人間の感性は五感からその先(第6感、7感。。。)も含め互換性があるものです。視覚を刺激する聴覚があり、味覚を刺激する嗅覚があり逆もまた然り。直感を刺激する直感があったり。。。

少し回りくどいですが、前置きはこれくらいにしておき、本作品を僕の言葉で少しだけ説明する事に対しての前置きと解釈して頂けたら嬉しいです。




額縁の無い一枚の大きな絵画が存在したとして、それが無重力空間にバラバラに飛び散り、無数のピースが空間を漂っていると想像して欲しい。


この世界に生を受け、個として存在しているとはそう言う事なのかもしれない。


ある朝電車に乗るとする。特に満員の通勤ラッシュを狙うと良いかもしれない。

そこには自分の人生と接点の無いと思われる無数の人々が幾多の感情や念を『見えない』キャリーバッグやリュックサック、スーツケースで運んでいる。その中身の実態は皮肉にも表情か眼差しに宿り外界へ見え隠れする。その見えない何かに触れ合う瞬間、こちらも目に見えない感情を刺激される。相手の何かに自分を投影すると言った方が良いかもしれない。それはパズルのピースが刹那的に接着する感覚と似ている。言葉は交わしていないのに、相手の発している何かに反応して、その人の人生の断片を疑似体験してしまう。刹那的に繋がったパズルのピースは、その相手が既に繋がっている別のピースがどのような模様をしているのかさえ、自分の中で描写してしまう。その描写が妄想という域を脱さなくても、イマジネーションが生き物の様に呼吸しているあり様を感じ取れる時程、『生きてる』、と実感する事は無いのかもしれない。

   

ムンバイの駅のプラットホームで股関節から湾曲し、脚が『運命の車輪』の様に絡まり、胴体ごと転がりながら物乞いをする人に遭遇した。その肉体の有様に度肝を抜かれると同時に彼の澄んだ瞳は、自分の受けた『生』をありのまま受け入れているとしか思えない様だった。自分の勘違いなのかもしれないが、何故か寒い日に飲むけんちん汁が五臓六腑に染み渡ると感じる程、腑に落ちた。先述の満員電車の中でスマホやタブレットを目的も無くただ眺める人の瞳より、生命力に溢れていた。人生の時間にしたらほんの一瞬の遭遇かもしれないが、不平不満が蔓延する現代社会では稀に観る瞳に自分の感情はくすぐられた。妙な共感が時間を超えて、その人の人生の別のパズルのピースと繋がった。もしかして、自分は彼だったのかもしれない。はたまた、次の人生で自分が彼になるのかもしれない。その彼と目を合わせた時間には過去も未来も存在せず、ただ、その時に感じ取った印象的な何かに想像力が点火された。

   

輪廻というものの断片を観た気さえもした。

   

東京のとあるバーでワインを飲んでいた。葡萄の種類はピノノワールでカリフォルニアのものだった。薄皮で繊細な葡萄であるピノがどの様な気候で育ってどんな人達の手に因って実を摘まれ樽で熟成して行ったかを想像するだけで、その場に居る筈の自分はそのまま佇んだまま、幽体離脱した自分が葡萄に生まれ変わりまた違う誰かに飲まれ、生命が循環しているサイクルの断片を味わえる気がする。

   

これも輪廻のコンセプトなのか?

 

はじめに飛び散ったパズルのピースは個であると同時に、個では無く全体の一部分でありそれがまた大きな個を形成していてそれが無限に広がっている。自分の内側を掘り起こし、覗いてみると果てしない意識のタペストリーが広がっていて全てと繋がっている。


そんな感覚を一人一人に体験して欲しい。


Bungalow 4作目 You Already Knowはそんな想いが詰まった音楽です。


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# by koomuraa | 2017-06-23 15:44 | thoughts

5度目のインド

インドから帰国して間もなく一ヶ月が経過しようとしています。

帰国直前は既に長い年月インドに滞在し、もはや日本で何かをしている自分すら想像出来ない程、インドの香り、時の流れ、移り行く人々、飛び交う言語の海に心を無心にして浮かんでる様な気持ちでした。

その精神状態は、体がその特異な土地を離れても継続しますが、やはりどうしても無性にあの土地で感じ取った何かに心を寄せたくなるものです。

帰国後もすぐに中村真トリオでのツアーが始まり、目まぐるしく全国を移動していて、つい数日前漸く東京に落ち着きました。東京という都市に新鮮だなという感覚を覚える事に違和感を感じていたのですが、実質2017年に入り、東京で過ごした時間は2週間しか経っていない事に気付きました。。。

旅をしていると、心情が、移り行く景色と共に呼吸をし、束の間、あるいは刹那的な風景にとても凝縮した時間の流れを感じたりするものです。真夜中のムンバイの街をオートリクシャに乗って、二度と観る事の無い人達の様々な生の形を目の当たりにするのとどこか相似した感覚を覚えます。

毎度インド滞在では、今までの滞在と全く異質の何かを気付かされ、驚かされ、考えさせられ、のお土産が付いてきます。

今回のお土産はなんだったのだろうと、この一月考えていました。
日本全国うろうろしながら。

それは、実はどうやら僕はタブラを学ぶ為だけにインドを訪れてる訳では無いということ。

この事に対する認識は数年前から微かにあったのですが、今回の旅でより明確になりました。

2月頭、タブラの師匠のヨゲッシュ先生に一つのフレーズを到着してすぐ教わりました。

見本を見せて貰った時、そのあまりにも素晴らしく、表現力溢れたフレーズに感動して、自分のものにしたいという感情が溢れ出ました。
内心で、『このフレーズを毎日数時間しっかり叩けば3月末帰国する頃にはある程度叩ける様になってるかな。』

と今でもその心の声を克明に覚えてます。

1週間が過ぎても、滑らかに指が動きません。
2週間で少しマシになったかと思いきや、先生には、
『低音部のスピード感が高音を担う手順に比べたら抜けて来ないね。もっとゆっくり練習してご覧。』
その先2週間ゆっくり練習するが、なかなかイメージしてる、もしくは先生の様な低音が鳴らない。

そんなこんなで押し問答を7週間続け、帰国数日前になったが、結局上達したのはほんのわずかでした。

『7週間は短いですね、最初に教えて頂いたフレーズに尽くしたつもりですが、こんな結果しか出ませんでした。なんだか、もっと時間が欲しかったです。』

すると先生は軽く笑い、

『7週間は長いよ。ただ、何を主体に置くかで変わるものだよ。私が君のレベルに合った短いタブラの古典レパートリーを渡し、それを君が数個マスターするのには充分な時間だ。しかし、この旅で君に最初にあげたフレーズをマスターするにはあまりにも短いね。』

先生、最初からお見通しの様でした。
そしてこう続けました、

『知性とは、授かった知識から結果を期待したり求めない事だ。その知識の可能性を断定や制限しない為にね。だから今出来ないという結果に捕われなくていい。今理解出来ないという感覚に囚われなくても良い。その結果は極めて一時的で、いずれ別の行程に繋がり、君の旅をより豊かなものにしてくれる。』

その言葉は、タブラというとても難易度の高い楽器を通して、その他のありとあらゆるものに応用出来るアドバイスだと直感的に感じました。

利便性や結果を絶えず求められ生まれる現代人の精神の歪みというものがあります。
表面的な結果や、形以上の深い何かがあり、それこそが価値のあるものなのだよと、先生は7週間かけて僕に教えようとしてくれていたのだと思います。

その証拠として、なかなか上手くならないそのフレーズを絶えずモニタリングされてましたが、
『まだ出来ないのか?ちゃんと練習してるのか?』
等の台詞を先生は一度も言いませんでした。

僕の中の何かを試し、僕の中に何かの種を植えてくれたんだと思います。

その種の具体性は断定出来ませんが、数年、数十年経って、僕がまだこの人生を歩き続けていたら、揺るぎない財産になっている事にだけは、謙虚な自信があります。

またインドを訪れる日が待ち遠しい。
そして、あの街の香りが恋しく思えた初春の深夜でした。
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# by koomuraa | 2017-04-26 00:20 | InDiA

新宿PITINN

【新宿ピットイン】

地下へ降りる階段は二つある。

どちらから降りるかに因って店内に入るときの空間に対する認識も変化する。

玄関と裏口がその建物の印象を変えるように。

店内に入ってステージを客席から見て左側に控え室がある。そこでの時間の流れは、すぐ先に控える『表現の時間』一点に向かっている。

控え室から対角線上の部屋の隅に広告棚がある。

そう遠くない未来に行われる、著名から無名な音楽家達の様々な音楽会の控え室。それぞれの向かう時刻は複数の散りばめられた点。しかし、各々が自己と向き合い、なにかしらのアウトプットに向かうという時のベクトルは共通してる様に感じる。

最後列のさらに後ろから眺める景色は、ステージから眺める景色と奇妙な共通点を擁す。

薄暗がりの中で見る客席に集う人々の正面と、後ろ姿は、その人が誰とは特定しがたいが故に、知ってる誰かに見えてしまう奇妙な現象が起きる。

己の中で投影したいなにかなのだろうか。

それが過去からの記憶なのか、未来に寄せる想いからなのかは定かではない。

ここで行われる『表現』という現象の創り手も、その受け取り手も似たような認識と時間の垣根の払拭を経験する気がする。

音が出た瞬間、それはもう過去であるが、同時に未来も司っている。

無数に散りばめられた過去と未来。
時間の概念は普遍性を説いているが、時間のそのものの可能性は、きっと無限なのだろう。

この空間を出るときも、昇る階段のオプションは二つある。

どちらを選択するかに因って、土産として持ち帰る感覚も微かに違う。


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# by koomuraa | 2016-12-18 11:25 | thoughts

先生について

連休明け仕事に戻るのが楽しみで仕方ないという方々。
休みが永遠に続けばいいのになと考えてる方々。
その両極の間のどこかに浮遊している方々。

そんな時間の中で僕がインドで聞いた少しほっこりするようで、
心をくすぐられるお話しをシェアしたいと思います。

僕のインドのタブラの先生Pandit Yogesh Samsi(以下YS)さんは幼い頃からインド古典音楽界の伝説的なタブラ奏者Ustad Alla Rakha KhanSaheb(以下AR)に幼い頃から見込まれ修行に取り組んでいました。
当時ARさんの息子Zakir Hussain(以下ZH)がインド古典業界で一世を風靡していた頃で、今世紀最高の天才とあがめられていました。やがて世界に出ていきジャンルと国境をまたいで数々の伝説的な演奏を記録していくのですが。。。

当時のYSさんは彼に追いつこう追いつこうと必死に練習していました。
聞くところによると学校の無い日は夜通し明け方まで(僕もこの練習メニューに付き合ったことありますがとてもハードです)

ところが憧れの天才のZHさんの師匠で自分の師匠でもあるARさんには怒られてばかりだったそうです。
何度やっても先生の満足を得られない果てには、

「お前にはこれは一生出来る様にならないんじゃないか?もういい。帰れ!」

とまで言い捨てられたそうです。

へこんだYSさんは数日間レッスンに行かなかったそうです。

その数日後、師匠のARさんから電話があり、

「今すぐ来い。今日はRavi Shankarさんの伴奏仕事だ。同行しろ。」

破門寸前だと思って気が乗らなかったYSさんはそれでも師匠の呼び出しなので出向きました。

タクシーに師匠と同乗し、最初に行き着いた場所はコンサート会場ではなく、YSさんの父(今は亡きPandit Dinkar Kaikini。著名で方々から尊敬されてた古典声楽家。)の当時教えてた音楽学校の彼の校長室でした。

「お前はここで待ってろ。」

と父の事務所の前の廊下に立たされたYSさんの心境は、

{きっと、もう僕に教えることは無い。稽古に息子をよこさなくていいと父に話してるんだろうな。。。}

と思ったそうです。

ほんの数分で出てきたARさんはYSさんを連れそのままコンサート会場に向かったそうです。
その日ARさんとYSさんの父の間で交わされた会話は明かされませんでした。
その日からもずっとARさんはYSさんを厳しく教えたそうです。

時は流れて25年。。。。。。

そのとき僕の先生のYSさんはインド古典業界で類を見ない実力者に成長していました。
世界中に弟子も居て大天才とあがめられていたZHさんも、

「父の伝統は私より彼、YSの方が熟知してものにしている。」

と絶賛するほどに。

師匠のARさんは他界もされていました。

ある日YSさんの父が、

「お前がまだ稽古真っ只中の時、一度ARさんがお前を廊下に待たせ私に会いに来た事を覚えてるか?」

とYSさんに問いかけました。

「もちろんです。とても不安な気持ちで廊下に立ってました。」

「あの時ARさんは、

{そこの廊下に立っている少年は、今世の中を騒がせている私の息子ZHとなんら変わらない素質を備えている。父としても見守ってやってくれ}

と私に告げてくれたんだよ。」

と。

長い間息子が成長する中で、真の成長の路線に定まった息子を見るまで、その太鼓判を伝えるのを長年待ったYSさんの父の偉大さに心打たれました。

そして先生とここ数年接してきた僕個人の解釈ですが、
彼は名声や周りの評価などに興味が無い人なのです。
それよりも重要なものがあるということを彼の父から教わったのだなと感じました。

今でもYSさんのご自宅には亡き父Dinkar Kaikiniさんの大きな写真が飾ってあります。

その容貌はとても奥深い瞳で優しい笑顔でなんとも言えない恍惚感にあふれています。
いつもインドでの修行が終わると先生の自宅に晩御飯に呼ばれます。
食前酒を彼の父の大きな写真が飾ってある居間で雑談しながら頂きます。
その空間の温かさは、僕が今までの人生で味わったものの中で最高のものです。

生きる中で何事も表面では悲しいことや、辛く耐え抜かなければならないことの裏にはとても大きな教えが含まれていると思います。

辛抱強く誠意をもって向き合うことの価値は万物万人に共通することなのかもしれません。
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# by koomuraa | 2016-05-07 23:54 | InDiA

2016年インド滞在を振り返って

毎回インドに来て驚かされる事は、

いままで経験した事の無いなにかを見せてくれること。

それだけこの国がありとあらゆる社会の層、人種、それに伴う色彩豊かなな文化と言語で溢れているという事でしょう。

ふと気付くと自分は、
グジャラート人の家に下宿しており、
先生の一家はコンカニー人、
仲良くなった友人達はマハラシュトラ人、ベンガル人からケララ人まで多彩でした。

良く観察すると、それぞれの人種的特徴もあるし、勿論言語は違う。

なのでインド内ではヒンディー語は英語の様なもので、インド人同士、英語がだめならヒンディー語逆もまた然りとデフォルトの公用語が二つでバトンタッチしてる光景が観察出来ます。(勿論南インドに行くとヒンディーはあまり使われてないので話が変わってくるのですが)。

そんな中人間観察に最適の場所の一つはムンバイの電車。色んな階層の人々が乗り込んできます。
僕はいつも2等で移動してるので、乗ってくる人たちのバリエーションはことさら豊か(2等列車の切符は激安なので)。

そんななか盲目の唄うたい兼打楽器奏者と遭遇しました。

言葉で音楽の素晴らしさを語るのは非常に難しいのですが、なぜなら言語の擁する特徴やルールがどこかで音楽の源泉にフィルターをかけてしまう場合があるので。しかし、この人については自分なりに描写してみたいと思います。

ドールという両面太鼓を首からぶら下げた彼は自分でリズムを打ち出しながら歌っていました。

そしてその音楽の純粋な事。

心臓を鷲掴みにされて、涙腺を絞られる様な感覚。

そんな感覚に襲われました。

ただただその場に居る彼の音楽に一瞬で入り込んでしまいました。

魂が裸。

その周りにいた人々も彼の音楽に何かを感じたのでしょう、次々に盲目の彼のポケットや手にお金を恵み始めました。

お金を貰い始めても彼は歌う事を止めません。
そして、よく見ると光の入らない彼の目からす〜っと一線の涙が頬を伝うのが見えました。

その瞬間僕の頭の中には色んな事が巡りました。
盲目の人がムンバイでなんとか電車に乗り込む苦労。
日々の生活で容赦のない環境で感じるストレス。
ギリギリの貧困の中で太鼓と声しか無いのでその中で精一杯音を出すこと。

人としての彼の噛み締めてる酸いも甘いも全て音にぎっしり詰まっていました。

様々な逆境の中での報酬として、見えない知らない人々にお金を貰う喜びの涙だったのかもしれません。
終わったら深々とお辞儀をし、降車して行きました。

あまりにシンプルで美しくて僕は暫く茫然としていました。

ここまでただひたむきに音を出せる事ってなかなか無いなと。
世界の厳しさ、醜さを沢山経験しても、音を出す時は無邪気な子供の様に居られる。
そして、ほんのわずかな報酬でも喜びの涙が溢れる位、自分にとって必要最低限の環境の中で心のそこから幸せを感じる瞬間があるという事。

人として自分にも他の人の中にもこのような事を見出せたら幸せだろうなと思いました。

この世界に身を置いてると、知らず知らずのうちに常識やルール、自分の敷いてしまったこだわりのレールまたは他の人に敷かれたレール等に捕われてる事さえ気が付かずに一生を終える事もあるでしょう。

そんな目まぐるしい世界の中で、時間が止まり、ふと大切な何かに気付かせてくれる瞬間がインドには沢山あります。

目を凝らして自分が歩んでる道を幽体離脱した様な感覚で眺められる瞬間というか。なんというか。

絶望も希望も悲しみも喜びも表裏一体のコインの様に。
そんなコインが空中でくるくる回りながら四方八方に浮いてる様な光景が広がってる様に感じます。

今回の滞在を終えてみて、
突き詰めれば突き詰める程、自分の無知に気付かされます。

なので、まだ僕はこの国について何も知らないのかもしれません。
なので、きっとまた戻ってくるでしょう。

感謝の気持ちだけこの土地に残して。
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# by koomuraa | 2016-03-22 13:04 | InDiA